関敦子演奏に関する論評
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ベルリン新聞より:明暗のセンス
モーツァルトのピアノ作品に非常な慎重深さをもって迫ったAtsuko Seki
モーツァルトのピアノ曲は子供なら誰でも弾くことができるのに、大人にとっては大変難しい。これはよく言われることだが、では一体どこにその難しさがあるのであろうか?一つには、モーツァルトのピアノ作品が彼の弦楽四重奏やピアノ協奏曲に比べて簡素に作曲されていることにある。メロディと伴奏の関係はだいたい一定で崩れることはなく、ピアノ演奏上の要求も、例えばJ.ハイドンが展開した奇妙な空想に比べたらありきたりなものである。
モーツァルトのピアノソロ曲には、彼がオペラやピアノ協奏曲、室内樂曲で示した対話的な要素が欠けている。
彼のピアノ曲においてはその自然な単純さを音にするのが極めて難しい。今日の幅広い表現のできるコンサート用グランドピアノでこれ等の曲を演奏する場合、音を相当おさえなければならないが、単純な和声構造や無邪気な遊びと真珠のような音の並びを表現する難しさも加わってくる。にも関わらずモーツァルトのピアノソナタは、しばしば演奏会の導入曲(ウォーミングアップのための曲)として使われるのは周知の通りである。
こうして我々は音楽的経験の中で、音の面でも様式の面でもモーツァルトへの距離を強く意識させられるものだが、ピアニストAtsuko Seki はこの距離を縮めている。彼女の場合、直接的でないタッチの矛盾が功を奏している。
それは触れられるためにあるのに、手を触れようとするとすぐに壊れそうになる矛盾の中で決して直接的タッチであることなく、常に注意深く弾かれている。
この音色は例えばピアノソナタ10番ハ長調KV330の導入部 — 2回同じ音が繰り返され、その後下降移動される第一主題 — で聴くことができる。
その他鋭く一本調子で弾く箇所でもAtsuko Sekiは思慮深く弾いている。
それはあたかも音楽が音楽自身と音色の流れをテストしているかのようである。そして彼女は曲を重くしないので、音楽は自然であり続け、その明るさが保たれるのである。
Atsuko Sekiの演奏は、常に歌うような柔らかい響きがあり、かつリズミカル、そしてテンポが一定している。それは晩年のホロヴィッツが表現したロマンティックな響き(天才的であるが一方きまぐれな)とは違っている。彼女のこの慎重な響きを聴き分けることのできる者は、モーツァルトの音楽に内在する底知れぬ深さと劇的な凝縮をそこに見出すであろう。彼女の演奏は、どのフレーズにも、一つ一つの音にもそれぞれの意味を持たせていて、写真乾板が明と暗を鋭敏にとらえるごとく、モーツァルト作品の光と影に的確に反応している。
こうして彼女は作品の神経核 — これは表現の急変とか異質なものが入ることで生ずる緊張状態 — を的確に表現している。モーツァルトの作品は、一見一面的なキャラクターを持つのみのように見える。しかし時として、わずかな何小節か、あるいはたった一回の和音の変化で、一つしか意味のないことが多くの意味のあることであったり、戯れが辛辣となったり、明と暗になる、この二つの意味を同時に持つのがモーツァルトの特色である。Atsuko Sekiはモーツァルトのこれらの微妙な壊れそうな同時性をよく現している。
ロンド イ短調の場合、その不協和音と半音階的な旋律の流れの的確さは類まれであり、彼女は長調の中間部を悲しそうながらはずむように、そして瞑想するかのように弾いている。モーツァルトの音楽はただ健康に満ち溢れたものではない — この事をこのCDは静かに控えめに一貫して語っている。
Atsuko Sekiは東京に生れる。慣習的な尺度に従っていえば、彼女はこれまでいわゆる“キャリア”というものを積んでいない。1991年国際シューベルトコンクールで当然のことながら優勝したが、いかなる事情からか録音したCDは少ない。しかし芸術性の高揚は録音回数や出演回数で計れるものではなく、彼女はまちがいなく当代のもっとも優れたピアニストの一人といってよい。
このCDがスイスのレコード会社DIVOX — この会社は室内楽や、派手さはないが持続性のある音楽の開拓に尽力している。 — から出されたのも偶然ではない。
モーツァルト年(2006年)だけでなく、多くの聴衆が求めたくなるCDと言えよう。
ベルリン新聞より
日付:2005年12月21日 掲載:文芸欄 テーマ:光と影の意味
出筆者Wolfgang Fuhrmann (ヴォルフガング フュアマン)
ルールナッハリヒテン紙 2007年7月
シューベルトのソナタD850ニ長調において彼女は、響きをよく考慮し、表現豊かに曲の輪郭を描き出した。それは力強く、また緻密な彫り物のごとく、遠見のきく詩的な線で描かれている。フィナーレではシューベルト特有の「曇り」を意図的にだし、柔らかくまた内面に溶け込んでいくようにエンディングへと運んだ。
彼女は控えめなおさえた演奏の中に、いかに感情豊かに表現するかをよく心得ている。彼女のシューベルト演奏は、センチメンタルに陥ることなく、とてもきめこまやかで、心に染み入る。
ルールナッハリヒテン紙 2007年7月
デトモルトから日本へ、
美しい調べ、
関敦子 ピアノ・リサイタル
デトモルト(ドイツ)在住の関敦子さんがリサイタルをおこなった。関さんは、武蔵野音楽大学、同大学院を終了、1991年渡独、デトモルト音楽院入学、1995年演奏家国家試験合格、同大学終了、1991年国際シューベルトコンクール第1位入賞他数々の受賞暦を持つ。現在はデトモルト国立音楽大学講師を務め、ドイツ中心にソロコンサート、トリオ・フェニックスとのアンサンブル他、日本でも演奏活動をおこなっている。微笑して登場した関さんは、シューマンのパピヨン(蝶々)作品2から始め、美しいフレージングで会場を魅了した。続くベートーヴェンのソナタニ長調作品28「田園」では、とくに最終楽章のテーマが優しく流麗で、緑豊かな田園風景を彷彿させた。後半はシューベルトのソナタロ長調D575、4つの即興曲D899より第2,3,4番を披露し、多様な音色と微妙なコントロールを用いて、素朴で美しい世界を聴かせた。とくに印象的だったのは、弱音の色彩の豊かさ、音楽への愛情である。師事できる生徒は幸せだと思った。
文:新渡戸稲代
音楽の友 2010年9月号より
関敦子
武蔵野音大を経て同大学院を終了、さらにドイツのデトモルト国立音大を修了した関敦子は、渡独した91年に国際シューベルト・コンクールで第1位に入賞するなどの成績を収め、ヨーロッパ各地で演奏活動を展開した。現在はデトモルト国立音大の講師を務めながら、ドイツを中心に活躍している。当夜のリサイタルは、シューマン《蝶々》に始まった。シューマンのポエジーと情熱的なロマンティシズムが、よく表現されている。ベートーベン「ソナタ第16番 田園」を、関は明確な主張をもって弾き進めたが、上品で格調高い雰囲気が保たれていたことも注目される。シューベルト「ソナタD575」での彼女は、シューベルト独特の息の長い旋律等を強調しつつ、各楽章の性格をきっちりと描き分けた。同「即興曲」op90からの第2,3,4番に聴く演奏は、輪郭のくっきりとした楷書体であり、堂々たる風格が漂う。(7月17日・津田ホール)
文:原明美
ムジカノーヴァ 2010年10月号より
関敦子
この日は仕事とJRダブルの遅れで、演奏会に遅刻してしまった。会場に着いた時には既に2曲目が始まっていて、ロビーのモニターで聴く羽目に。後日、当夜の録音を聴かせていただいたが、まずは、会場内で聴いたシューベルトの感想から。余計なものを排除して無駄のない、しかもダイナミックな造形が、アクティブに聴き手の心を掴む。その見事な緊張と弛緩のバランスに魅了された。《ソナタロ長調》D575は粋で、ユーモアも感じられた懐の深い演奏。《即興曲》D899からの第2,3,4番も非の打ち所がなく、多彩な音色を駆使しての同型反復の変容が素晴らしい。磨き上げられた解釈、そして真摯な演奏である。久々に本物を聴いたという感慨を抱いた。最初のシューマンの《パピヨン》作品2とベートーヴェンの《田園ソナタ》は録音を聴いての感想。拍感の基本がしっかり身についていて、実にテンポ感がよい。ニ長調の明るさと優雅さが両極に溢れ、素敵な演奏だった。
演奏者の関敦子は、武蔵野音楽大学、同大学院を経て、ドイツ・デトモルト国立音楽大学に学び、演奏家国家試験に合格。幾つかの国際コンクールで優勝を含むキャリアを積み、ヨーロッパ各地で演奏活動をして来た人。現在は、デトモルト国立音楽大学講師の傍ら、ドイツを中心に活躍中という。シューベルトの作品群によるCDを、今年6月にリリースした。(7月17日、津田ホール)
文:雨宮さくら